wikpedia《征韓論》には:
西郷隆盛(西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことであり、むしろ遣韓論)、
(略)
1873年8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定するが、同年9月に帰国した岩倉使節団の大久保利通、岩倉具視・木戸孝允らは時期尚早としてこれに反対、同年10月に遣韓中止が決定された(略)
とあります。
細かいことは判りませんが、親英派の大久保利通、岩倉具視・木戸孝允が西郷さんの足を引っ張っていた事が多くを物語っているのかもしれませんね。勿論、詳細の改竄もあるのでしょう。このあたりから読み解くと骨格が見えてくるような気がします。
ヘンリー・オーツさんの「実は維新は91|以上の捏造かもしれない」という言葉には、ハッとしました。そう考えるとそうなんですよ。
個人的には薩長同盟(実はいろいろと理由があったのでしょうが)自体が、感情的に腑に落ちないのを飲み込んだとしても、「敬天愛人」を唱える西郷さんのイメージにはそぐわない史伝が多すぎる気がします。基本的に西郷さんの事は好きだし立派な面も多いと思いますが、やはり薩長同盟をやらかしてしまった反動があったと思います。戊辰戦争の会津市街戦の事や、晩年の事を考えると哀れなオッチャンという気がします。彼ほどの人であっても、幕末、菊池家子孫というミッションが頭をもたげて感情的に走った、二心にゆれたという事が、結局はアダになったのでしょう。
それに比べると、桜田烈士たちは清々しいですね。彼らには二心はないです。しかし水戸は素晴らしい人材を多く失いボロボロになった。結局、昭和以降もいい評判が残った文化は、水戸の天狗納豆と松下提供の水戸黄門くらいかもしれない。
今からは藤田先生のご活躍が期待されるところですが。
桜田烈士には神主が三人参加しています。古今東西の歴史を見ても思うのですが、天ノウが表立って動いたり、神主が戦闘に加わったりという時は、時代も過渡期。末期症状の混沌期です。
そういう意味では、神主みたいなものが登場するのはまだ早いかもしれませんね…(苦笑) 登場せずに平和な時代が続く方が良いにきまっています。
【2008/03/12 11:06】
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歴史はおもしろい! ☆神社神主の子孫さん
人物の評価というのは難しいですね。現代の人(例えばこの間の農林大臣)を見ても評価が180度違ったりします。なんとか還元水で叩かれた一方で、農林中央金庫をユダ金から死守したとも言われています。
維新の歴史も日本国内だけの争いという視点だけで見ても何も解らないというのは言うまでもないことですが、まだまだ埋もれたままになっていることが多いと思います。日本の歴史の中ではもの凄い変化をもたらしたにも関わらず、その正体はまだまだ霧の中という感じがします。
西郷さんの件で「二心」と書いたのが、後からどうも気になりました。。。
ダブルスタンダードに心を悩ませることが多かったのではないかと感じる、と書く方が正確だったかもしれません。彼は熟慮を重ね、義を尽くすタイプなのでしょうが、それでも人のサガや運命というものは恐ろしい…ということが言いたかったわけです。
また、私はどうしても水戸側からの視点で見てしまうことが多いことはご承知ください。
(-_-;;
私達のような後世の者は、歴史を俯瞰できるから何とでも言いようがありますよね。当事者は生身の人間。さぞ大変だったと思います。
前述の「(西郷さんも実は)二心にゆれたという」のは辛口のものの見方です。ただ、国難時の重要なリーダーの一人ゆえ、後世の者より厳しい批評を受けてもしかるべきだと思います。そうやって次代をになう人々の糧になってゆけば、うかばれるものもあるでしょう。
水戸天狗党は愚直で、ヤンチャ。カタブツでもあった。どこか幼い感じさえしますね。田舎者集団だったようにも感じます。(数代前の肉親が参加しているので主観を交えてそう思います)
一方、幕府の崩壊も、内紛という面が多々あったのですが、スタンダードが絞りきれていない場合や、元々あった矛盾が露呈してきた為のダブルスタンダード等が問題でした。(詳しくは、そのうちまた書かせてください)
そうこうしているうちに、英国の狗たちに、国を盗られ…現在に至る。
(論が一気に飛躍しすぎか…苦笑)
殆ど内乱に乗じてのことです。
現代人が(特に幕末の)歴史を学ぶのは、パターン(定石)の認識の為にも重要ですよね。司馬史観には、わくわくしますが、どこかスイートで本質が判り難いですよね。私は、最近どうしても、いかに我々は失敗してきたかの教訓として幕末史を見てしまいますね…。幕末の失敗が、現在まで影響しています。幕末は天才と称される者が多かった割りに、現在に至る体たらく。虚(きょ)をつかれたかんじですね。。。
リーダーたるもの、生きてこそ、ということも大切ですよね。
人が簡単に命を捨てすぎたこと、本来の役割が機能しなかったこと等も影響しているような気がします。
【2008/03/12 16:42】
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知れば知るほど・・西郷さんは何回か自殺未遂していますね。斉彬が亡くなった後に久光が実質的にトップになるわけですがあまり相性がよくなかったようですね。わたしたち後世の人間は好きなことが言えるけど、当事者たちは先を読むのがとても難しかったと思います。久光もけっきょく大久保や西郷が自分と藩のために働いているとまかせていたら維新後、廃藩置県ということで今までの独立を奪われ、やけっぱちで花火を打ち上げるわけですから歴史の流れが見えていなかったのでしょうね。元菊池氏ということで野望を持っていたかどうかはわかりませんが常に二股をかけるということはあったのかもしれないですね。知れば知るほど何も知らないということが解ります。(笑)
F社時代に毎月ここで泊まっていたことがありました。いい温泉でした。
http://www.kkhotel.com/
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【2008/03/13 12:27】
| # [ 編集]
遣韓論の状況証拠。後進・頭山の志。思い出しました ヘンリー・オーツさんの体調がいいせいか、最近、ドンドンとブログ更新されますね。ずっとここにへばりついていてすみません。
(^^;;
西郷さんの事を考えていました。私なりの脈略がもう一つつながりました。
西郷さんと一緒に戦うことを夢見ていた青年・頭山満は入獄させられていた為、その夢は果たせず。たしか、偶然にも西郷さんが亡くなったその日に出獄をゆるされたという伝説が残っています。初期ウ翼の大御所として有名な方です。
その頭山氏、その後、自由民権運動他、いろいろと活動後、明治の中ごろより孫文や金玉均(キム・オッキュン。朝鮮独立の志士)などを日本でかくまっているのです。初期のウ翼が目指したのは、西欧からのアジアの自立です。
そのような思想を持つ後進がいたということからしても、西郷さんの主張は《征韓論》ではなく《遣韓論》ではないかと推測できます。
西郷さんが亡くなったのは日清戦争の17年前。いくら当時の半島の事情があったとしても、日本もまだ発展途中。やや悪意を持って考えたとして…、いくら李朝が弱っていたとしても海外遠征して善戦できると考えたのでしょうか?
現実主義者なら、まずは交渉に行くと思います。少なくとも、当時の状況の中、いきなり戦おうとするかなぁ?? というのは、日清戦争にしても、事前にいろいろと工作しているのです。→それをやったのが頭山満氏たちです。西郷さんの生前、明治の初期では、まだ国内問題も多く国力も乏しかった。
日清戦争にしても、侵略と考えるかどうか、、議論は分かれるのですが、少なくとも、多くの世論や政治家、また頭山満氏たちは日本が立ち上らなければ、アジアはもっと蹂躙されると考えていました。その日清戦争でさえ、用意周到、時間をかけた。また、(西郷さんの遺志を受け継ぐ)頭山氏はアジア各国独立の志士たちをかくまっていた。。。このことからしても、西郷さんの思想が推測できるような気がします。→敬天愛人
頭山満氏は、後年、尊王水戸学の象徴的な某所に、お手植えの松を植樹しました(私、見たことがあります)。頭山満氏の評価はいろいろと分かれる部分はありますが、水戸光圀→藤田湖東→西郷隆盛→頭山満という系脈が存在することが確認できます。そこから考えると、西郷隆盛、頭山満ともに、侵略重視ではなかったと考えるのが自然ではないでしょうか。
武士というと、戦やチャンバラをするものと思われがちですが、刀を抜いた時には、場合によっては自分も切腹することもあるくらいの覚悟を持っていたのが本来の武士の姿勢です。できるだけ刀は抜かない…、その(武力・権力)重みをわきまえるのが、江戸時代以降の武士本来の基本です。良く出来た武士ほど、その事を教育されていたと思うのです。簡単に刀を抜くのは、チンピラ武士です。。(反面、そういう事だから、剣豪の存在意義がなくなってゆき、、幕末の幕臣たちの腕がなまっていたということもあります)。辻斬りなんていうのは最低のことでした。
東アジアが混沌として、一番得をするのは誰か…。
今も昔も変わらないと思います。
争わない事が重要なのではないでしょうか。
歴史に学べるポイントといえるのではないでしょうか。
【2008/03/13 21:44】
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